最近の報道番組を見ていると、やたら「批判すること」に傾倒している気がしています。
誰かがちょっとした間違いでも起こそうものなら、ニュース番組ではその道の専門家が出てきて問題点を指摘し、それを聞いた大衆は同じようにまたブログやツイッターで罵倒します。人道に外れたことや倫理観に欠けることをした人間が責められるのは仕方がないにしても、物の本質というかあるべき姿が見えないまま「批判のための批判」をしているようにも思えます。
会議の場でも、何か新しい取り組みをやろうとする時、どうすればそれが実現できるかよりも先に問題点が指摘され途中で行き詰まってしまうケースはよくあります。
新しいことの試みは問題点もたくさんあるのでそれら指摘されたことをクリアーしてこそ新しいことをやる価値が出るのですが、議論の展開が「できること」よりも「できないこと」の上に立って意見をいう人が多いのも事実です。
「ネガティブのルーチン」に陥っていることもたくさんあります。
批判する人のタイプにはいくつかあって、
@本当に道理がわかっていて見通す力がある人がする批判。
A「何か言わなきゃ」的に対象物の欠点を無理やり見つけ出して批判する人。
B問題点を指摘することによって「自分は分かっている」立場を周りに印象付けて存在感をアピールする人。
C賛同することは負けや追随を意味すると考えて、とにかく批判することに価値を見出している人。
などなど
@のタイプとABCのタイプは明らかに違っていて、その違いはどうしたら生まれるのだろうかと考えたことがあります。
@のタイプは、自分で考えて行動できる人でリーダータイプでしょう。
でもごく少数です。
ほとんどの人がABCに属します。
人の意見を待っていてそれに反応する依存するタイプの人が多いようです。
これは職業に関係なくどこの世界にでも起こっている現象ではないかと思います。
頭がいいと言われる医師や学者、弁護士などの会議でもABCのタイプに人は必ず存在します。
@のタイプは必要ですが、ABCのタイプもまた必要です。
ただバランス的に社会全体に後者のタイプが増加しているのも事実ではないかと思います。
これの背景にはやはり小さい時からの競争や教育が大きく関わっている気がしています。評価は減点主義で、100点から悪いところを差し引いて評価をする仕組みなので、どうしても相手の悪いところに目が行ってしまいそれが日常でも当たり前になってしまっています。
子どもは悪いところを指摘される環境に育つと、大きくなっても同じように相手の悪いところを指摘するよう自然となってしまいます。
批判することの反対は賞賛すること。
相手を「ほめる」・・・なかなかできないことですが、やはり人が生きがいを感じ、活動的な幸福感を得られるのは他人からそれなりの評価を得られた時ではないかと思います。
またそれが社会に活力を与えていくのではないでしょうか。
そこで、これはひとつの案ですが、
学校教育でも、「評価」の時間を設け生徒が出した作品などに「直すところ3割 ほめるところ7割」くらいの基準を作って毎回友達同士で評価し合ったら、きっと相手を思いやる習慣も自然と出てくるようにワタシなんかは思うのですが・・・・・
どんなもんなんでしょう。
By Ryu