2014年08月26日

塾はいらない

 代ゼミ(大学受験予備校)が全体の7割を閉校するというニュースが先日ありました。

少子化が進み、1990年頃と今とを比べると、20年の間に18歳の受験人口は半分くらいになっています。

そこへ景気の不安定もあります。そしてまたペーパー試験からAO入試の導入など選抜方式も変わってきました。

代ゼミに限らず、予備校も経営の安定化には必死だろうと思います。


しかしながら・・・・

そもそも塾や予備校は必要なのか・・・と、むかしから疑問に感じていました。


大学入試そのものは、今と昔を比べるどちらが難しいのでしょうか。

多くの専門家は受験全体で言えば昔のほうが難しかったと言います。それだけ学力が低下しているということなのでしょう。

それに昔は今ほど塾通いをする生徒はいませんでした。

(昔とはワタシが受験した頃なので・・・・30数年前)


ではなぜ塾に行くのでしょうか

・ 希望する大学に沿った勉強ができる

・ 学校だけの授業では足りないので学力アップのため

・ 受験情報が学校より豊富だから

・ 塾に通っていると親が安心する・・・・などなど。


ただ塾に通っていると言いつつも、基礎学力が消化不良を起こしたまま塾通いする生徒もたくさんいます。

ましてや塾は学力いうより、受験に受かる「テクニック=傾向と対策」を中心に教えます。

学力が不足のままテクニックを学んでも空回りするだけなのです。


これは社会が悪循環を起こしています。


勉強する子は、学校の授業では足りないから塾に通う。しかし全体的に基礎学力が不足しているから塾に行ってもなかなか成績が上がらない。成績が上がらないから、ますます塾に投資をするようになる。(塾代はバカになりません)

結局はお金をいっぱいつぎ込んで塾経営のお手伝いをしている・・・・なんていう人もたくさんいるのはないでしょうか。


一方全く勉強せず、TVゲームばかりに夢中になったり、街を徘徊する子どもはたいがい「学校が面白くない」といいます。


勉強する子はより効率的に、そして勉強しない子が勉強にやる気を出す環境になるには・・・・


私見

 いっそ世の中から塾や予備校をなくしたらどうでしょう。

そうすればすべて、学校の授業と自習だけで受験することになります。おそらく最初は学力はガタガタでしょう。世界から取り残され、一旦地に落ちるかもしれません。

 でもそうなれば、文科省はじめ政府は必死で学力アップのために教育の改革を行うでしょう。

先生も必死になって教えます。先生が一生懸命な姿を見せれば生徒はついてきます。

 そのおかげで学校生活そのものが密度の濃いものになり、友達同士の人間関係を勉強する機会も増えます。友達が増えれば学校も楽しくなります。授業抜けだしてゲーセンに行くことも少しはなくなるでしょう。

それに塾がないのですから、「あの子は有名な○○塾に行ってる」などと、子供同士親同士のつまらないブランド意識もなくなり、差別や嫉妬もなくなります。それに塾代も大助かりです。お父さんの小遣いも多少増えるかもしれません。


人間の体と同じ。

塾という「栄養剤」に頼らず、原点を見直して体力そのものをつけることを目指してゆけば、日本の学力は世界のトップにふたたび君臨できると思うのですが・・・・。


By Ryuわーい(嬉しい顔)





posted by ばばちゃん at 17:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 言いたい放題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月06日

社会の病巣

 ついに自殺者まで出てしまいましたstap事件。再生医療の第一人者で世界に誇る学者がこんな形になってしまったことはとても残念に思う一人です。

これは論文不正問題や、科学者のあり方といった枠を超えて、今の日本に根深く蔓延している病巣を見た気がします。


 ある学校で成績の良い学生の答案に疑義が生じ、

「カンニングをしたのではないか」と疑われ、ライバルの学生は敏感に反応し

「そんなカンニングをする奴は人間のクズだ」

「神聖な試験を何と心得ているのか」とここぞとばかりにバッシングの嵐。

「これは学校の恥になる」

「そんなカンニングする奴の親の顔が見たい!」

「過去にも遡って答案を検証する必要がある」

担任の先生はそれを見逃した責任は重いと、校長はじめ教育委員会やら父兄からもう攻撃。しかし当の本人は

「やったつもりはありません」と言ったところで、

「こんな答案の書き方はやったに決まっている」と不正があったことを前提にどんどん話大きくなってついにその学生は孤立してしまう・・・・


 今回のstap事件、どこなく似ているようにも思えてなりません。

そもそも、カンニングは悪いに決まっているのです。それを大上段に振りかざして、相手に申し開きなど出来ないようにして、自分は安全圏内から石を投げつけるのです。憎たらしいからちょっといじめてやれ的な発想からでしょうか。

 


 人は誰かに嫉妬したり腹が立ったりするとき、そういう自分を見破られないため

「こういうのを見逃したら真面目にやってる人が可愛そうだ」

と「もっともらしい当たり前の正論」をぶちまけます。そして自分は正しいことを言ってる、と自己肯定します。

 

 今回stapに関して、学会や大学の教授、マスコミは一斉に「科学の信頼を貶めた」として正論という石を投げつけました。中には魔女狩りでもするような勢いの学者もいます。

 

投げた1個の石はたとえ小さくてもそれが何千何万となれば、巨大な武器になって相手の命をも奪うことになってしまうことを我々は一歩下がって考えなくてはいけないのではないでしょうか。


 「そんなもの不正をしたのだから自業自得だ」という論理があるかもしれません。しかし実際にやったことは論文のミス、データ管理の杜撰さ、実験のミス。それを看過した上司。こんなことでいちいちもう攻撃され命を落としていたら命がいくつあっても足りませんし、我々全員死ななければなりません。

それにこのstapとは比べ物にならないほどのデータ改ざん問題(アルツハイマー)が日本で起こっているのになぜそちらに関心を寄せないかです。


 それにしても何か「目新しくとっつきやすい風」が吹くたびに、日本中が一斉にそちらを向いてしまうのは、隣人と同じ情報を持っていないと取り残され村八分にされるという、農耕民族特有の性(さが)なのでしょうか。


「どの観点に立って批判をすればいいのか」

「より大きな視点、あるいは別の視点で見たら自分の意見は正しいのか」と考えることは生きていく上でとても大切なことで、むしろこういう教育こそ学校教育に割いてほしいものです。


By Ryuわーい(嬉しい顔)

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2014年04月23日

ほめる

 最近の報道番組を見ていると、やたら「批判すること」に傾倒している気がしています。

 誰かがちょっとした間違いでも起こそうものなら、ニュース番組ではその道の専門家が出てきて問題点を指摘し、それを聞いた大衆は同じようにまたブログやツイッターで罵倒します。人道に外れたことや倫理観に欠けることをした人間が責められるのは仕方がないにしても、物の本質というかあるべき姿が見えないまま「批判のための批判」をしているようにも思えます。


 会議の場でも、何か新しい取り組みをやろうとする時、どうすればそれが実現できるかよりも先に問題点が指摘され途中で行き詰まってしまうケースはよくあります。

新しいことの試みは問題点もたくさんあるのでそれら指摘されたことをクリアーしてこそ新しいことをやる価値が出るのですが、議論の展開が「できること」よりも「できないこと」の上に立って意見をいう人が多いのも事実です。

「ネガティブのルーチン」に陥っていることもたくさんあります。


批判する人のタイプにはいくつかあって、

@本当に道理がわかっていて見通す力がある人がする批判。

A「何か言わなきゃ」的に対象物の欠点を無理やり見つけ出して批判する人。

B問題点を指摘することによって「自分は分かっている」立場を周りに印象付けて存在感をアピールする人。

C賛同することは負けや追随を意味すると考えて、とにかく批判することに価値を見出している人。

などなど


@のタイプとABCのタイプは明らかに違っていて、その違いはどうしたら生まれるのだろうかと考えたことがあります。

@のタイプは、自分で考えて行動できる人でリーダータイプでしょう。

でもごく少数です。

ほとんどの人がABCに属します。

人の意見を待っていてそれに反応する依存するタイプの人が多いようです。

これは職業に関係なくどこの世界にでも起こっている現象ではないかと思います。

頭がいいと言われる医師や学者、弁護士などの会議でもABCのタイプに人は必ず存在します。


@のタイプは必要ですが、ABCのタイプもまた必要です。

ただバランス的に社会全体に後者のタイプが増加しているのも事実ではないかと思います。


これの背景にはやはり小さい時からの競争や教育が大きく関わっている気がしています。評価は減点主義で、100点から悪いところを差し引いて評価をする仕組みなので、どうしても相手の悪いところに目が行ってしまいそれが日常でも当たり前になってしまっています。


子どもは悪いところを指摘される環境に育つと、大きくなっても同じように相手の悪いところを指摘するよう自然となってしまいます。


批判することの反対は賞賛すること。

相手を「ほめる」・・・なかなかできないことですが、やはり人が生きがいを感じ、活動的な幸福感を得られるのは他人からそれなりの評価を得られた時ではないかと思います。

またそれが社会に活力を与えていくのではないでしょうか。


そこで、これはひとつの案ですが、

学校教育でも、「評価」の時間を設け生徒が出した作品などに「直すところ3割 ほめるところ7割」くらいの基準を作って毎回友達同士で評価し合ったら、きっと相手を思いやる習慣も自然と出てくるようにワタシなんかは思うのですが・・・・・

どんなもんなんでしょう。


By Ryu

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2014年04月10日

常識の危険

 昔読んだ小説で、ある時ネズミが異常発生をして津波のような大群が街を襲います。交通網が遮断され、ネズミを媒介として疫病が蔓延し次々と死者がでます。生物学や生態学を研究している学者の英知を集結し対策を練ります。政府は戒厳令を敷いてネズミの大群に化学兵器をもって撃退しようとしますが全く効果がなく、日本が大パニックに陥る話があります。

「ネズミの生命力」や「大群になった時のネズミの集団心理の怖さ」は学者の常識をはるかに超えていました。

そういう非常事態に対向する手段は、「常識」ではなく「常識を超えた想像力」である・・・と作者が言っていたのを昨日の小保方さんの記者会見を見て思い出しました。


 会見内容を見て、養護する人、反論する人、様々な意見が出るのは当然のこととしても、科学を専攻している学者の大半は「研究者としてあるまじき行為」と、批判をしているのが印象的でした。特に女性科学者は辛辣です。どうしてそんなに叩くのでしょうか・・・・


 実験ノートが少ないことが問題になっています。某国立大の教授は「2冊なんて考えられない、科学を冒涜している」とまで言い切っています。それを受けてかどうかわかりませんが記者がその質問をすると「45冊はあります」という小保方氏の回答でした。

それを聞いていて「?」・・・なんか本質からずれているような気がしました。

じゃ〜実験ノートが何冊あったらその教授は納得したのでしょうか。そういう問題じゃないと思うのです。


 確かに論文に不備はあったでしょう。しかし・・・

そもそもこれだけの世界をあっと言わせる研究は理研にとって一大プロジェクトのはずです。これが成功するかしないかによって今後の国からの予算が大きく変わります。世界をリードすることもできます。

理事長以下上席の人達と何度も会議をもって「これでいこう」となったと思います。それだけ肝いりのプロジェクト、世間から突っ込まれたからといって一研究員が捏造したということで責任を押し付けるのはそれこそ社会的に無責任ではないかと思います。逆を言えばそんな軽いプロジェクトだったのか・・・とうことになります。


 200回以上成功した・・・は、意味がありそうです。

回数はどうであれ、その言葉の裏に彼女の自負が見えました。私にしかstap細胞は作れない、そう簡単に詳細なコツは教えられない・・・・その自負は作った本人にしか理解できないかも知れません。研究成果は自分が産んだ子どもと同じくらい大切なもの。いかに世間が騒ごうとも、学者から批判されようとも「最後の砦=作り方のコツ」は公開するわけにはいかないのです。仮に今、疑念を持たれている段階でそんなことしたら、名誉回復はできたとしても研究者として自分が死んでしまうの分ってるからです。

とにかく今は石にかじりついてでも次のステップに繋がる研究成果を自分で出したい・・・他の研究者よりももう一歩先をリードしておく必要がある。それからでもコツを公開しても遅くない・・・・そんな意地とのプライドが会見でチラホラ見えました。

「私を解雇したらもうstap細胞は作れません・・・報告書を改め私を今まで通り雇いますか?それとも私一人のせいにして切りますか?切ったら損失は大きいです」と無言ではありますが、理研に決断を迫ると同時に恩義を売ったのです。200回という数字は相手にパンチを与えるに十分な数です。

ただそんなシナリオは彼女一人が考えたものではないということは言えそうですが・・・・。だからあのように歯切れが悪いのだとワタシは思いました。


世間では今回の件についてはすべて「常識」という枠の中で批判や批評が飛び交っています。研究者はこうあるべきだ・・・・論文とはこう書くのだ・・・コピペなんてありえない・・・


そういう常識で判断をしていくと「ネズミの大群」ではないけど、今回の問題の本質はなかなか見えてこないような気がしています。



By Ryuわーい(嬉しい顔)

posted by ばばちゃん at 15:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 言いたい放題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月25日

姿勢・・プラスとマイナス

  前回書いたSTAP騒動・・・、理研の記者会見以後なんとなく変な方向に来て、細胞そのものの存在より、不倫だの嫉妬だのと関係者のプライベートなことにまで面白おかしくネタにされてしまっているのをみると、「世の中何でもありか」と報道のあり方を改めて思います。

  不倫であろうが、ips細胞への嫉妬心であろうが、そんなことはどうでもいいことなのです。研究の動機や裏側がどうであれ、われわれは成果だけを見て評価すればいいだけと思います。偉人伝記に出てくる野口英世も借金を踏み倒し放蕩を繰り返した異端児でしたが、それに反比例するかのように研究に対する執着心とバイタリティーは他の研究者を圧倒する並外れたものがありました。人間誰しもプラスの要素があればマイナスも必ずあります。

  それにしても小保方さん、持ち上げられたと思ったらいきなり落とされました。わずか1ヶ月の短期間でこれほど天国と地獄を味わった人も少ないでしょう。

  少し前、そのSTAP細胞が大きく新聞記事に載っていたその横に、タンパク質のイオン化でノーベル化学賞をとった田中耕一氏のことが小さく記事に出ていました。一滴の血液からすべての病気が解明できることを目標に日々研究をしていることが書かれていました。その中で、「研究成果が出た時は5合目くらいにたどり着いたと実感した。しかし研究を進めるにつれて、自分が今何合目にいるのか。まして目指しているところは富士山なのかエベレストなのか、それすらもわからない」という日々の苦悩が綴られていました。

  様々な疑惑を引きずりながら世間を騒がせているSTAP細胞と、一方で謙虚にそして真摯に研究に打ち込む一研究者とはあまりにも対照的な印象を受けました。

  どちらの研究姿勢がいいか・・・などという評価は、あまり意味はないと思っています。なぜなら、そこにあるのは科学的真実の究明ということが「全て」だからです。
マイナス要因をバネにしてプラスに転じる研究者もたくさんいます。

  姿勢の良し悪しは他人がとやかく言うものではなく、その人にあったやり方でいいのではないでしょうか。その姿勢が研究成果にいい形で返ってくるのか悪い形で返って来るのか・・・最後は自分の責任なのですから。

By Ryuわーい(嬉しい顔)


posted by ばばちゃん at 14:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 言いたい放題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月08日

同窓会のルール

 年末、年始は実家に帰る人も多くなり、特に年始に郷里で同窓会を・・・・という方ももたくさんおられるでしょう。
いくつになっても・・・と言うより、年齢を重ねるごとに同窓会なるものが楽しくなります。
さて同窓会での気になるお愛嬌をすこし

一つ目は
同窓会は自慢する場所と勘違いしてる人、たまにいます。ブランドの洋服に身を包み、自分は今こんな仕事してるんだ〜、私は○○会社の社長と結婚して・・・・自慢げに名刺をいっぱい配る人(男女ともいます)
みんなから注目されたい、幸福感で優越感に浸りたい気持ちは分からなくはないのです。でも、やりすぎると嫉妬という敵を作るだけなのですが、本人は楽しんでいるので笑って見過ごすしかありません。

二つ目は
昔をなつかしんでおしゃべりに花が咲く・・お酒も手伝い、いつの間にやら「告白タイム」なるものが顔を出してきて

「学生の頃はあなたが気になっててね、下校時間をわざと合わせてました」
「ワタシ・・・○○君とか□□君からよく手紙もらった・・でもあなたは1通もくれなかった」
とか、ドキッとする事言ったりと、きりがありません。

それぞれの席でそれぞれの昔話をして
「じゃーまた次の同窓会で・・・」と、それはそれで終わればよいのですが、2次会やカラオケという流れになってくると、お酒の勢いを借りてハメを外しかけるおっちゃん、おばちゃんも出てきます。

たまたま気になる人の横に座れて電話番号やメールアドレスを教えてもらって、翌日から早速メールを出す人もいます。・・・本人同士が納得してるのは良いのですが、たいていの場合は片思いなのです。
頑張ってくださいとしか言えません。
(やけにリアルですね? いえいえ経験談ではありません・・・念のため)

三つ目は

同窓会に先生をよんだりするのはいいことなのですが、教えてもらった生徒側は学生の頃より人間的にも成長しています。だけど先生の中には昔の気分のままで

「あの時のおまえはあーやった恥かしかったなあ〜」と過去の傷口を開けるような言い方をする先生もいて

笑って済ませられるケースならいいのですが、
「今ここでそんなことをみんなの前で言わなくても!」
と空気が凍ってしまう場面、過去にありました。言ってる本人は無頓着なのですが・・・

「なあ〜んだ、こんなつまらない先生に習ってたのか」と、今までの思い出が台無しになってしまいますが、そんな時は、過去の先生の思い出より「成長した自分」をほめてあげましょう


同窓会はみんながそれぞれの立場でそれぞれの環境で成長して、むかしを懐かしんで集まる場所。


それだからこそ心のルールも必要かなと思ったりします
みんなが気持ちよく会話ができるためには「今日は同窓会という非日常のステージで楽しもう」というこころの割り切りも大切ではないでしょうか。現実ではなく、ステージの上でのストーリー・・なのです。

By Ryuわーい(嬉しい顔)

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2013年08月29日

基礎学力

全国学力テストが実施され、わが街大阪は最下位から数えた方が早い順位の結果となりました。

この全国学力テスト・・・・都道府県別に順位を付けますが、これは子どもがその結果を知り鼓舞奮闘するということよりも、どう改善すればテストで上位になれるか、ボトムアップが図られるかという次の課題に照準を合わせた教育者サイドの基礎資料のためのものなのです。

要するに順位が低いと先生の教え方や教育の指針が間違っている・・・改善の余地あり・・・ということになのでしょうか。


でもちょっと待って・・・・

確かに基礎学力を上げることは、将来的に有能な人材が増えることになり、それが結果的に国力増強につながりますが・・・。


しかし、テスト結果が悪いから教え方を改善する・・・・ちょっと短絡的すぎではと思ったりします。


教え方もそうですが、家庭の環境や子どもの人間性などもっともっと大きな要因が複雑に関わってくるように思います。
攻めるところが違うような・・・

少し前、大阪で民間から校長に公募抜擢されながら「自分のやりたいことと違っていたので辞める」と言って校長職をわずか3ヵ月辞した人がいました。


「自分の経験や強みが生かせる職場ではなかった」
「英語教育を推進したかったが、教育委員会の方針と違った」

何言ってんだ!・・・このおっさん

多分彼は学生の頃から成績良く優秀だったのではないかと思います。しかし、自分がどれだけ「自分のことしか考えてない発言」をしているのか・・・それすらわかっていないのです。


自分は悪くない・・・準備が出来ていない環境(他人)が悪い。
そもそも教育は結果が出るのに長い時間がかかる・・・・ということを理解できてないまま校長に応募したのでしょう。
根本から間違ってませんか。

学力テストの話に戻りますが、テスト結果で方針云々はそこに成果の即効性を求めているような気がしてなりません。
今までゆとり教育と言いながら結果に重点をおいた結果、こんな偏った校長先生が誕生したといっても過言ではないでしょう。


人として他人を思いやる人間教育をしっかりした上に「基礎学力」を載せてこそ本当の総合的学力が付くように思います。


最近は子どもより、親を教育し直した方がいいな・・・と感じる場面に遭遇することも多々ありますが、子どもの人間教育に必要なもの・・・・


皆さんはなんだと思われますでしょうか・・・・

また次の機会に個人的考えを書きたいと思います。


By Ryuわーい(嬉しい顔)




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2013年08月08日

高架下利用

下の写真は、北大阪急行線高架下です。
自転車で信号待ちをしていて、ふと目にとまったのでスマホのシャッターを切りました。

2013-08-03 08.39.41_R.jpg


連続する柱と梁が空中に浮かんでいるような・・・・普段はめったに目にしない空間・・・

なんか利用できないのだろうか・・・

そんなことを考えてしまいました。

全国いたるところに存在する鉄道高架下については、以前から様々な機関で利用についての調査や研究がおこなわれてきました。
また実際にも高架下を有効利用しているところはたくさんあります。


駐車場、駐輪場、店舗、公園など

ただ高架下のイメージが暗い、汚い、振動がする、コンクリートが冷たい感じ・・・・そんなマイナスイメージが先行するせいかあまり画期的な活用法は今のところ実現されていません。

店舗は暗いイメージを払拭して「にぎやかさ」に転換できるので、成功例かもしれません。


さてこの北大阪急行の高架下空間

sq-31_R.jpg

上図のように、両サイドに人があるく道がない(あっても自動車専用道路)ので、人が寄りつけません。


ならば常時活用ではなく、期間を限定して仮設的に使うのもひとつの方法ではないか・・・と考えました。

仮設的とは、1年に1度開放して、道のようなイベント広場をつくり、店舗、ギャラリー、大道芸、仮設劇場などをつくります。普段我々がつかっている道路は車が走っていて、移動手段にしか使いません。
道で立ち話をしたり、ベンチに腰かけたり、歩きながら品物を見たり・・・昔ながらの「界隈」的なものを作ってはどうでしょう。

「界隈」といえば市場街やアーケードのある商店街が思い浮かびますが、高架下は1年に1度という仮設性に重点を置いて全体をプロデュースして、全国に先駆けてやれば、商店街や市場街と差別化が図れ、街の活性化に一役買うのではないでしょうか。

なんだか夢物語を書いてしまいました。

By Ryuわーい(嬉しい顔)





ラベル:高架下 界隈
posted by ばばちゃん at 16:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 言いたい放題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月05日

カタカナ文字

名古屋の男性が、NHKを提訴・・・・というニュースが流れて、そういえば最近やたらカタカナ英語が多いのに改めて気付かされました。


提訴内容はアナウンサーというのはわれわれ視聴者が理解に苦しむようなカタカナ英語は使うべきでない・・・・国営放送ならちゃんとした日本語を・・・というものです。 

アクセス、コンテンツなど、年配者は何のことやらわからないという理由です。

これには賛否両論ありますからこれのコメントは控えます

ワタシは学生の頃、論評とか嫌いな方ではなかったので、時々読んでいましたが今ほど横文字はなかったように思います。

今の1/10くらいの量だったように感じます。

とくにパソコンが普及した影響は大きいでしょう。

気が付いた横文字(カタカナ英語)思いつくだけ並べて見ました

バグ、コンプライアンス、ガバナンス、テクスチャー、ソフト、ハード、アプリケーション、アスリート、コンセプト、アジェンダ、レジュメ、リスペクト、ジレンマ、マイノリティー、マジョリティー、マター、アンチテーゼ、カオス、ボーダレス、ネガティブ、ポジティブ、マニフェスト、インフラ、リベラル、ヒューチャリング、リンク、コモン、コンセンサス、ストラクチャー、コンシェルジュ、レビュー、カスタマイズ、サイト、クライアント、スペック、デフォルメ、フォーマット、ペースト、アイデンティティー、エディット、ワークショップ、スレッド、アウトソーシング、セカンドオピニオン、フィックス、ジェンダー、テイスト、コラボ、トレーサビリティー、アセスメント、プレジール、アノニマス、ケータリング、ハラスメント、ウォンツ、プロパティー、イノベーション、ソリューション、カテゴリー、シェア


まだまだあるでしょう。きりがないのでやめます。

カタカナ英語はぼんやりとしたイメージや観念的なものを表現するのに便利で、慣れると英語の方が話しやすかったりします。

ただ、自分の考え方を表現するのに、使わなくてもいいのに無理して使っている人もたまにいます。



「先日、○○区のウォーターフロントに新しくできたコンベンションホールは極めてコンテンポラリー(現代的)な形態と言えます。特に随所にちりばめられたバロック様式のディテール(詳細)が受け継がれながらもデフォルメ(対象を主観によって変形)された部分と共存し、ダブルイメージ(詩的)を図りながらノイズ(異音)を発生させているところが評価できます。また内部空間の各ゾーン間のヒエラルキー(階層)は・・・」


ところかまわず、こんな文章を平気で書いたり言ったりする人います。特にちょっと売れ出してきた作家的な若い人に多い。(建築家にその傾向強い。偏見でしょうか)

「あんたアホか」


と言いたくなる文章です。

カタカナ英語を使うと「なんとなく知的にみえる」と勘違いしている人ですね。



使ってはいけないとは思いませんが、文章でも口頭でも、目的は相手にいかに理解してもらうかっていうことですから、TPOはとても大事だと思います。

カタカナ英語をやたら使い持論を展開する人は、一見かっこよく見えたりするのですが、自分の言葉に酔ってるだけで能力的に狭い人も多いので、知らんふりしておくのがよいかもしれません。

横文字が普及の一方で、昔ながらの「漢字」がすたれて行くのはちょっと残念です。

コスモスよりは秋桜(風情があります)
烏賊(意味がなんとなくわかります)
向日葵(きれいです)
美人局(つつもたせ・・・あこぎなことでもでもきれいないいまわし)
御御御付け(おみおつけ・・・・ユーモラスです)

学校でパソコンや英語を教える時間をさくなら、母国語の多様性を教えてもいいのにと思う一人です。

みなさんはどのように感じられますでしょうか


 

By Ryuわーい(嬉しい顔)



posted by ばばちゃん at 21:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 言いたい放題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月01日

facebook・・・・どう使うの?

SNSが爆発的に普及し、そのうちのひとつ、facebookにハマっている人はそれこそ食事中でもスマホを触っていたりして、SNS疲れ・・なんていう言葉もできるくらい、ちょっとした社会問題になったりしています。


2
年前にワタシもfacebookをやり始めました。
小学校の時同じ合唱団に所属していた中に好きな女の子がいて、その子どうしているんだろう?がきっかけ。

プロフィールを作って何人かの友達申請して・・・・

そして
その後、投稿をしたこともなく、ほったらかしの状態が今現在も続いています。


 

好きだった女の子にネット上で出会えなくても、ビジネスとして何か出来そうな気がしてやり始めたものの、「あれ?」とすぐに違和感を覚えたのは確か。


新しく出来たイタリア料理店に行って注文したランチの写真、基調講演を聴いて感動した話、自分の子どもがクラブで活躍した話、趣味の写真、旅行に行ってきた話、街で見つけた犬の写真 などなど


どれもこれも 「ふ〜ん」


で終わってしまい、ぜんぜん頭に残りません。


だいたい他人が何をしようが、本人の勝手だから、人の私生活にあまり興味がわかない・・・というワタシの性格によるところも大きいのですが・・・・


 

仮に誰かの投稿に「いいね」ボタンを押したとします。今度は自分の投稿に「いいね」が返ってこなかったら、それはそれで面白くありません。


同じ部署の女性から「いいね」が返ってこなかったので、部署内でパワハラ・・・実際にある話です。

なので、そうなると前もらったから返さなくちゃ・・・・で、「義理いいね」になったりして今度はそれが苦痛になります。


自分のプライバシーをみんなに公表するのですが、実際に悩んでいる家庭内のこととか、仕事上の事など生々しい話はまず載せませんから情報がすべて当たり障りのない、みんなが「ふんふん」とうなずくような「軽いよそいき」の内容になってしまいます。


その「軽いよそいき」の内容で互いに「いいね」を押し合って上手く回っていたとしても、同じ輪の中でぐるぐる回っているだけで外に向かって何かを発信するというものでもありません。


それほど親しくない仲間も含め、互いに褒め合いしているみたいな・・・・見方を変えれば、ちょっと気味悪い光景かも・・・です。


「いいね」がネズミ算式に増えて行く・・・という見方もあります。
しかし、「いいね」と言っています・・・という情報が来たからと言って何人の人がその情報を確認するでしょうか。

「友達かもしれない」人・・・・・も、ほとんど赤の他人です。

それにしても、なぜこんなに他愛もない自分の行動を他人に知らせる必要があるのか・・・・

軽いプチ自慢?・・・・


見て見て〜ワタシ?
頻繁に送られてくると、「うんざり」することも多々ありますから、Facebookの現状をどうしてもネガティブに見てしまいます。



 

そんな難しいこと考えんでいいねん。

そういうもんやねん。

見たくなければ、見なかったらいいだけ!


 

確かにそうです。


 

ただ

実際のところ、東日本の震災などの時、情報を入手するのには大変役に立ったと聞きます。

また音信不通になっていた級友を探したりは便利です。
(でも経歴はなんで高校から?  なんで小学校の情報入らないのか疑問)



画期的なもっと別のいい使い方、誰か考えてほしいものです。


By Ryuわーい(嬉しい顔)


 

posted by ばばちゃん at 15:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 言いたい放題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月27日

自己啓発って?

大型書店にぶらりと立ち寄ると、ベストセラーコーナーに必ずと言っていい程「自己啓発本」が幾種類も並んでいます。

心理学の側面から書いたものや、成功談を並べて「普通の私でも年収○千万になれたのです。あなたもポジティブな心の持ち方で明日から・・・」など、様々な角度から読者にアプローチしています。


しかし・・・・


このての本が売れるということは何を意味するのだろう。それだけ救いを求める人が多いんだろうなあ・・・ついそんなことを考えてしまいます。

確かに啓発本は仕事で失敗した時、失恋した時など自分がネガティブな状態になっていて、その状況から抜け出したい時などに読むと、ちょっと救われたり勇気づけられたりします。

ただし読むと言っても「立ち読み」に限る・・・買ってまで読むものでは・・・・とワタシは思っています。

そもそも自分の生き方や心の持ち方を他人から「こんな風にすれば・・・」などと押しつけがましく言われたくないというのがワタシの根底にあります。


また他人から言われて明日から実践出来るような心の強い「自己コントロール」の出来る人なら、この類の本はきっと真剣には読まないでしょう。

心の持ち方や、哲学は他人から教えてもらうものではなく、自分の様々な失敗経験や人の生きざまを見て、色々考え、自分の中で咀嚼して、そして最終的にそこから「自分ならこうする」というもの見つけるところに意味と強さがあるのですから。


 

ぽっこりお腹を治すのに、腹筋をしたり、ジムに通ったりして頑張っている人が結構いるようですが、その身体の部位(お腹)だけを頑張って鍛えても、自分の循環器系が元の状態なら幾らやっても脂肪は減らず効果は期待できません。
むしろ楽に毎日続けられる有酸素の全身運動をした方がはるかに効果的です。

身体のしくみそのもの(根本)を変えなければなかなか痩せることはむつかしいのです。(経験談)

「啓発本」もそれと同じ。付け焼刃の情報を本から得ても、持って生まれた自分の癖や性格はそう簡単には変わるとは思えません。


夏休みの宿題を8月の終わりのギリギリから憂欝な気持ちでやっていた人が、気持ち切り替えて7月中に宿題をやってしまうようなもの。

本を読んで頑張る気持は出てもせいぜい3日続けばいい方でしょうか。


それなら


世の中何でもアリ・・・・100100様 犯罪しない限りOK。  

自分の性にあった信じられる方法でやるだけ。やってだめならまた次の方法を考えたらいいだけ・・・・

笑いたい奴には笑わしておきましょう。いろんな考え方がり、いろんなやり方がある。答えは一つではない・・・・とうことを理解している聡明な大人は、他人が一生懸命していることを決して笑いません。

そう考えたら気分は楽になりませんか。

By Ryuわーい(嬉しい顔)



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2013年05月31日

サスペンス・・大阪

学生の頃良く観ていた土曜ワイド劇場・・・


今でも多分そうだと思いますが、サスペンスドラマ・・・といえば京都が舞台。たいへん多いです。金沢も結構出てきます。


ところが、「大阪」はなぜかサスペンスドラマの舞台としてあまり出てきた記憶がないのです。

そこで考えてみました。


 

サスペンスドラマで人を惹きつけるのは「謎」

そして「謎」から広がりをもって積み上げて行く「推理」


それらが成り立つには、背景に「神秘的なるもの」がどうしても要るのです。

人が神秘的と感じるもの・・・・イメージ的には・・・

歴史、代々続く由緒ある家系や財閥、神社仏閣、有名大学での特殊な研究、そしてまた一方で風光明媚な観光地、・・・


これらをつなげていくと…、

その地方で代々続く家計に生まれ、有名大学に勤務する準教授(とりわけ専門は特異性をもったもの)が、遺産相続に絡み、愛人も巻き込んで展開する殺人事件・・・・そんなストーリーが生まれそう。


こうなれば舞台は京都。


金沢は特急列車が絡んだサスペンスが多いような・・・・それでも加賀100万石を舞台に、金沢大学や兼六園も出てきたりしてドラマを展開していくにはうってつけ。


神戸が舞台の場合は、港町だけあって、京都、金沢よりもう少しドライでカラッとしてるサスペンスドラマが似合いそう。


 

では大阪ならどうなるか・・・


ちょっと想像しにくいのです。

人が神秘的と感じる、歴史、由緒ある家系、財閥、神社仏閣、大学 などなど条件はそろっているのですが、それ以上に「商売のまち」としての「にぎやか系」「生々しさ」が圧倒的パワーを占めて他を消してしまっている気がしてなりません。

建前よりも本音。神秘よりもリアリティーが優先してしまう文化なのでしょう。


生活に直結し、リアリティーに富んだサスペンスドラマ・・・・作ってほしいと思いますが、真剣に観つつもわれわれ大阪人は舞台が大阪なら何かしらの「落ち」を期待してしまうのでしょうか。

まあそれはないにしても、京都に限らず、もっと地方の文化を盛り込んだ、その地方ならではのサスペンスドラマができれば面白いと思いました。


By Ryuわーい(嬉しい顔)




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2011年08月23日

フェイス その1

「人を外見で判断してはいけない」とよく言います。

反対に

40歳過ぎれば自分の顔に責任を持て」(男性版)という格言もあります。 

53年生きてきた考えを言いますと、ワタシは後者に近い考えです。
人は第一印象や見かけによることが多いのです。 

優しい人は穏やかな顔つきをしています。
思慮深く見識のある人は深みのオーラを感じます。 

ずる賢い人は冷たく薄っぺらい印象はぬぐえません。
いつも不平不満を周りにまき散らして、人のせいにしている人の顔はどこかいびつで、やさしさが感じられません。

優しそうな顔して「えげつないな〜」という人も中にはいますが、でもそういう人は見る人が見ればすぐに喝破してしまいます。
外見と全然違う、とあとで気が付く人はひょっとしたらまだ人を見る目が未熟なのかもしれません。
(ワタシもそうなのですが)

 夢を持ちまっすぐに進んでいる人の顔はいつも輝いています。若い人が清々しく見えるのは、未来という未知なものに進んでいるひたむきさが表情に出るからではないでしょうか。

年齢を重ねた人でも目標を持って進んでいる人は若々しく、力強さを感じます。
またそういう人は周りをも幸せにします。 

同じ目標でも、足の引っ張り合いをして、「俺が、私が、」で無理やり自分を浮上させようとする人は顔つきも歪んできます。  

自分個人の出世や名誉欲のためではなく、大きな視点で社会や周りに潤いや勇気や幸せをもたらす目標を持って進めば、おのずといい顔になるはずです。

自分が今置かれている状況や過去の年輪は必ずと言っていいほど自分の顔に現れます。
 
全ては内面が顔に出るということでしょうか。
いい顔つきは付け焼刃では出来ないんですね。

 「夢か〜・・・長い間どこかに置き忘れてたなあ〜・・・毎日の生活に追われて・・・・」

 と嘆く前に、短期間で自分らしいいい顔をつくる方法がないわけではありません。

ネットで見たのですが顔訓というのをご存知でしょうか。
いい顔づくりの一番の原則は自分の顔を好きになることらしいです。
そして人に見られること。 

ブラジルの女性のヒップの美しさは世界一と言われています。
リオのカーニバルで世界中の男性から視線を浴びますから当然納得ですね。 

自分の顔が嫌いなあなた。

今日から鏡をしっかり見て、口元爽やかに口角しっかり上げて笑顔を作ってみましょう。
きっと幸せの第一歩が始まるもしれません。

By Ryuわーい(嬉しい顔)
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2011年06月29日

雑観U

あっという間に半年が過ぎてしまいました。

別段毎日ぼーっとしていたわけでもなく、それなりに、適度に忙しくしていました・・・・
というのが正直なところです。 

仕事もそれなりに順調・・・・、様々な公的イベントの企画や司会も楽しんで・・・、暑さのせいでビール量が増え・・・・です。

どういうわけか本年度も中学校PTA会長をする羽目になってしまい・・・・周りから「2年連続は中学校始まって以来やな〜」と言われてしまいました。

というか、最近は「じゃ〜今年は私が!」といって手を挙げる人もいなくなって、役員や委員長を決める際はずっとうつむき加減で「どうか私に当たらないように・・・・」と心の願いが顔に出ているお父さん、お母さんたち。


どんな場合でもそうですが、上から言われて渋々する仕事ほどつまらなくてストレスがたまるものはありません。


「やってみたら意外と面白かった」というのは、役員になって、最初は戸惑いながらも、隣の人とちょっと無理してしゃべり、季節のイベント終了後の打ち上げや、忘年会などおしゃべりタイムが増え、そして1年間のお疲れ様会を迎えた3月あたりにそんな未練混じりの気持ちもチラホラ・・・・・が本音ではないでしょうか。


すべては結果論ですが、最初から「やったら面白いですよ!」という説得はあまり効果はありません。
やりたくない人にやってもらう・・・・これは奥が深く永遠のテーマのようです。 


3
月、東北で震災が発生し、日本のみならず世界中に大きな打撃を与え、同時に次世代にたくさんの課題を残しました。
特に原子力発電所の事故は、見えない出口をさまよっている感じがします。

今回の事故で、原子力=安全というテーゼが崩れ「得体の知れないもの」「未知で分からないことだらけ」に変化し安全神話が崩壊しました

専門家も「わからない」事の上に議論を重ねて行きますからますます混迷します。

ちょっとSF映画のようになりますが、原子力を「未知から来た恐竜」に置き換えたストーリーを考えて見ました。

ある時人類はこの未知から来た恐竜は様々な病気を治す免疫細胞を持っていることを発見します。
この免疫機能をうまく採取するためには恐竜を静かにさせるための餌も発見しました。人類を病気から救う救世主として絶対的信頼を置きます。餌を規則通りに与えていれば、恐竜は檻の中で静かに眠っている・・・・安全であるという確信も生まれました。
しかしある時、予測しない飛行物体の外的刺激によって恐竜の持つ本来の凶暴性に火が付き、檻の中から飛び出して、人類に危害を加えはじめました。
科学者たちはどうしていいかわからなくなっています。つまり恐竜の本質は何も分かっていなくて、どんな手を打っていけばいいのか分からない状態に陥っている。
社会はパニックになっています・・・・

今回の事故に似てないでしょうか。

なんかの本で読んだことがありますが、予測しない出来事に対処できるのは、優秀な学者や政治家ではなく、並はずれた想像力を持った人材が必要と。
 
敗戦後の日本にとって、エネルギー確保は最重要課題でした。

1か月ほど前閣議決定された「エネルギー基本計画」で、首相は早い段階で、太陽光発電を基幹エネルギーにすると表明しました。
1キロワットの発電で見ると、太陽光発電は原発の10倍近いコストがかかると言われています。
施設や場所の問題だけでなく、効率のよい太陽光発電を研究する費用や設備等を考えると途方もないコストがかかります。

言うは易し行うは難し・・・といったところです

おそらく来るべき世代は税金強国日本が出来あがっているやもしれません。海外で永住する人も増え人口が激減してるかもしれません 

私の小さい頃は、田舎で育ったせいもありますが道にアスファルトが敷いてあるのはごくわずかでした。
ほとんどが「土」の道でした。道の照り返しもなく真夏の最高気温も30度くらいで、エアコンなしで充分生活ができました。

世の中が進歩することは、「シンプルイズベスト」とは全く逆方向で、一つの論理の上に様々なものをくっつける厚塗り化粧状態です。
病気なってこの薬を投与すると副作用が出るから、その副作用を抑えるためにまた別の薬を飲む・・・・これの繰り返しにも似ています。


本来の自然や人間が持っている「自然の力、原始的な力」を見直していく社会も必要かな・・・と最近思います。

五月の連休、実母の血液検査がひっかかり、病院で検査することとなりました。
エコー検査から始まり、CT、胃と腸の内視鏡、PET検査、そして細胞の生体検査をしてもらってようやく病名が分かりました。
「マントル細胞リンパ腫」にかかっていました。原因は不明です。
罹患者数もごくわずかで難病の一つらしいですが、昨年新薬が認可されて、よく利くとのことらしいので期待はかけているのですが・・・・

一昔前なら、病名が分かったら本屋さんに行くなりして、家庭の医学書を真剣なまなざしで見ていましたが、インターネットの普及で今では最新の情報を素早く見つけることが出来ます。実家の病院から大阪の病院に転院しての治療に切り替えましたが、そんな時の事務手続きや患者データの病院同士の共有が瞬時に行えるのもネット社会の恩恵です

ただ、今、現存する病気は太古の昔からあったものではなく、社会の進歩によって新しくできた病気もたくさんあるでしょう。

エネルギーや病気に限らず、昔の時代がいいか、今の時代がいいか・・・という二者択一的的思考ではなかなか未来への解決の糸口はつかめないくらい構造的にも複雑になっているのは事実のようです・・・・・。
 

すべてを突き抜ける想像力がほしいです。



5
月の連休に植えたトウモロコシも大きくなりました。

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飼っているウサギは夏の暑さに弱いらしくダレている毎日です。

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我が家は真夏でもリビングダイニングでエアコン使いません。汗かきながら食事します。

子どもには不人気のようですが・・・・・

By Ryu わーい(嬉しい顔)

 


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2010年03月18日

夢・・・しごと

 この前、小学生の息子と相方をつれて、「私のしごと館」に行ってきました。
 
 子供に実際の仕事の勉強を・・・・というのは建前で、実は自分はどんな仕事に向いていたんだろうか・・・ひょっとしたらもっと別の道もあったかもしれない・・・と純粋に思ったからです。
  

 ワタシは小学校時代、学業成績はいつも真ん中くらいで、スポーツも出来る方ではなかったですし、またクラスのリーダー的存在でもなく・・・可もなく不可もなく・・・みたいな。
(ただ、絵と書道だけはいつも入賞でした・・・)
 また全部が全部ではないけど、周りが流れて行く方向に素直につていけないというか・・・・、
漠然としていましたが、「みんなとは違うもの」をワタシなりに探していたフシは、今思い返せばところどころあります。
 

 さて、「わたしの仕事館」では、いろいろ目移りしましたが、とりあえず子供と二人で「消防士」を体験。
 現場の第一線で活躍しておられる方からのお話を聞いたり、消防服を着て消火活動のまねごとをしたりするのですが、まねごとであるとはいえ、仕事の大変さは想像を超えていました。
  

 また、さまざまな質問に答えると、そこから自分にぴったりの仕事を探してくれるコーナーもありました。
 
 ワタシの場合、コンピューターが分析した結果、平均値より高かったものは、
「個人プレー」 「改革」 「自由人」 「スペシャリスト」 「マイペース」
リーダーシップは平均値でした。
だいたい当っているかもしれません。
 
 ただ具体的職業では残念ながら「建築家」には該当しませんでした。
 
適合する職業は、飲食店主、裁判官、司会者、劇場支配人、旅行社カウンター係、脚本家などでした。
 
確かにやってみたい職業ではありますが・・・ 

 
相方に適合する職業は「設計士」でした。
まあ相方は学生時代、他の科目はともかく、理科と算数で学業の点数を稼いできたみたいな人ですから、技術者としては自然といえば自然なのですが・・・・ 

 
子供に適合する職業は「植木職人」でした。
 
ひとりでコツコツやる性格・・という意味でしょう。
 
自分で納得して笑っていました。

 ところでこの「私のしごと館」は閉鎖されるのですが、後始末が大変みたいです。
広大な敷地と施設ゆえに入札にかけても誰も買いません。(当然でしょう)
解体費だけで30億円弱もかかります。
総工費は580億円。
(これを聞くと、えーと設計料はおそらく○○億円。うーん20年くらい遊んで暮らせるな〜などと下世話な夢物語をかんがえてしまいました) 

 
しかしこの「私のしごと館」、施設のコンセプトに問題もあったようにも感じました。
もう1回行ってみたいとは思わなかったからです。

 「私のしごと館」は様々な職業の内容を伝えてくれていますが、そこに行って「夢」をもらってくることは残念ながらありませんでした。


 本来職業を考えるとき、「私はデザイナーになって一流芸能人の服をデザインしてみたい」といった
自分なりの「妄想に近い夢」みたいなものがある程度必要だからです。
 
現実に直面して「甘かった自分」を思い知ったとしても、それはそれで自分にプラスになっています。
 
妄想の前に「職業の事実」を伝えられてしまうことは、推理小説の犯人を教えられてしまうのに似ているようにも思いました。 

 
そういう観点からは、この種の施設は「余計なお世話」かもしれません。 
 
 子供の「夢」は周りが用意するものではなく、妄想と現実のはざまで「自分の力」で見つけて行くものではないでしょうか。

By Ryuわーい(嬉しい顔)
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2009年09月07日

毒の魔力

 政権交代で、すっかり影をひそめてしまった酒井法子の覚せい剤ニュースですが、朝やお昼のワイドショーでは未だに根強い人気です。


 「そんな話どうでもええわ!」
 と言いたくなる方もいらっしゃるかと思いますが、裏を返せばそれだけその酒井法子ニュースに視聴者が多いからこそ放送するのでしょう。

 

 では、なぜその報道をつい見てしまうのでしょうか。

 

 それは一言でいえば「魔力」なんだろうと思います。


 清純スターと覚せい剤というあまりにもかけ離れたギャップに「酒井法子の毒」を感じているのだろうと思います。

 

 人は怖いもの見たさや、現実とかけ離れた存在に不思議と惹かれていきます。


 ひょっとしたら、その毒々しい魅力で酒井法子は今まで以上に人気が出るやもしれません。

 

 酒井法子とまではいかなくても、日常の中にそれによく似たことはたくさんあります。


 そのひとつに、「悪いと分かっていて惹かれる、止められないもの」です。

 

 中学生がたばこを吸う

 エリートがやくざの世界にあこがれる・・・。


 遊び人でグータラ亭主と分かっていながら離婚できない・・・。


 騙されても、騙されても、またその相手を信じてしまう・・・。

 

 数え上げればきりがありませんが、すべて「毒の魔力」ではないでしょうか。

そして共通するのは、自分とは全く正反対の「負」の部分に惹かれてしまうのです。

 

 でもそれはもっと裏を返したなら、「負」の部分もすべて自分のものにしてしまいたいという完全主義者としての自己表現の一つではないでしょうか。

 

今はやさしさが主流の時代。

でも「やさしさ」だけでは飽きられる・・・

 

すべては「正」と「負」のシーソーゲーム。

 

だからこそ面白いのかもしれません。

 

By Ryuわーい(嬉しい顔)

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2009年09月01日

印象力

 先の選挙で民主党が圧勝し、テレビや新聞は新政権誕生ニュース一色です。

 
31日の朝刊では、疲れ切った麻生総理と、意気揚々とした鳩山代表の顔は全く対照的なのがこころに残っています。


 何人ものコメンテーターが口をそろえて、

「民主党が圧勝したのは、民主党や政策が気に入っている・・・というより、現与党は、毎日苦しい生活を強いられている庶民に対して何もやってくれない・・・という思いが根づいてしまって、その反動が一気に民主党に流れてしまった」と。

 

 まったくその通りだと思うのですが、それにしても与党は、世相に対してなぜもっと敏感になれなかったのでしょうか・・・
 
 と思うと同時に、小泉総理以降の歴代総理は、発言してもどこか他人事のように聞こえてしまい、明日になれば「そんなこと言いましたっけ?」とすっとぼけられてしまいそうな感じで、何となく軽い印象をぬぐい去ることはできませんでした。

 

 田中角栄の金脈政治がいいとは言いませんが、やはりあれくらいのパワーでガンガン推し進める「強い印象力」「アクの強さ」を持った総理だったなら、今回のような大敗は少なくとも免れたかもしれません。

 

 政策がいくら良くても、それを実行したとしても、その効果が表れるには何年もかかります。


 与党も野党もマニフェストが独り歩きし過ぎているのではないでしょうか。

 

 
 リーダー・・・とりわけ総理という重職に就く人は、政策やビジョンをしっかり持つことも大切だと思うのですが、その前に、国民に「夢と希望」を失わせないだけの、「人間的パワー」や「印象力」を持った人が今の時代には不可欠なようにワタシは思います。


By Ryuわーい(嬉しい顔)




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2009年08月24日

勢い

 連日のように、世界陸上と全日本女子バレーを観戦していました。
 
 「いけ〜!、よっしゃ!」の掛け声が、親子共々テレビの前で響き渡りますす。

 

 ボルト選手の世界新記録は「すごい!」の一言ですが、やはり能力とは別の「神がかったパワー」というか “勢い” のようなものを感じてしまいます。

 

  “勢い” のある人とじゃんけんをすると負けるそうです。

 仕事は、忙しい所(勢いのあるところ)にしか来ない・・・マーフィーの法則でしたっけ

 


 今から
20年くらい前、車を買い換えようとディーラーを訪れて、その何日か後にそのディーラーの所長さんから電話があり、価格のことやら色々話をしていました。

なかなかワタシからいい返事がもらえないのでしびれを切らしたのか、

 

「商売というのは勢いが大切ですから・・・」

 

とそんな話を、客である私にしたのです。

ちょっと説教されているようにも思えましたし、ワタシもまだ若かかったこともあり

「そんなことワタシに言われても」・・・と心の中で思い、結局購入する気にはなれませんでした。

 


 自分が商売を始めて様々な経験を積んでくると、その時もらった(?)言葉が身にしみて分かってきます。

 客に対して言うべき言葉ではありませんが、“勢い”は毎日のように意識するようになっています。

 

これは、自分のその時の運、不運を予想したりするときだけに留まらず、いろんな場面で “勢い” という視点で考えていくと結構その本質が見えてきたりします。

 

たとえば

 

仕事以外で、色んな会議に出席する機会はあるのですが、ダラダラとした会議のループにハマってしまうと事態が収拾せず、何のための会議か?と思ってしまうことがたまにあります。
 
 そういう時、司会進行やリーダー役の方が本流をしっかりとらえて、会議の勢いを堰き止めない配慮をしていただけたりすると、とても会議はスムーズに進行します。


 会議のリーダーの心得ですね

 (会議のやり方については、また次の機会にでも)

 

 それにしても、全日本の女子バレーワールドカップ、勢い不足(?) とても残念です。

 次回に期待したいです。

 

By Ryuわーい(嬉しい顔)

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2009年08月05日

才能

 才能にはたくさんの種類があります。


 音楽や絵画などの芸術的才能、経営の才能、人を惹きつける話術の才能、スポーツの才能など、持って生まれた能力の前には、凡人がいくら頑張っても到達できない領域が存在するのは誰しも認めるところです。

 

 それらは、音楽にしろ、スポーツにしろ、日常とは切り離された世界をさす場合が多いのです。


 だから人は言います


 「才能のある奴にはかなわない」・・・・


 

 しかし・・・

 

 一般的に言われる特化された世界の才能とはまったく別に、日常生活の中にこそ、本当の「才能」が隠れていると前々から考えていました。

 

 それはどういうことかと言いますと、「向上心」という才能です。


 自分自身を謙虚に受け止め、反省をして日々改めていく能力です。

個々の方法論ではなくて、もっともっと精神的な部分での向上心です。

 

 自分自身のスキルアップのために、色んな本を読んだり、あるいはセミナーに通ったりして自分を高めていくことはとてもいいことだと思うのですが、それらはあくまで自分自身の「ソフト」な部分で吸収であって、自分が本来持っている物事に対する捉え方や考え方など「ハード」な部分は少しも変わっていません。
 砂漠に水を撒くように、知識は通過するのですが、それに実になり花になることは少ないのです。(過去の経験から)

 

 経営方針を変えて、明日から取り組もう・・・とスローガンを掲げても、社長や社員の心構えが変わらなければ、本のカバーを付け替えただけ・・・に終わってしまうケースも多々あります。

 

 本当にスキルアップ、経営方針転換をするなら、もっと大切な方法論以前の問題として、自分自身の心のあり方を悔い改めない限り、いくらやっても同じだろうなと思うのです。

 

 今日できることを明日に延ばす癖のある人が、経営方針を変えようとしたところで、その悪い癖は付いて回りますから結局同じなのです。

 

 自分の足を引っ張る「悪しきハードな部分」を改めるよう日々努力する能力こそ、唯一もっとも大切な才能ではないかと思います。

 

 しかし、これを身につけるのは至難の業で、これこそ持って生まれた才能の頂点ではないでしょうか。

 

By Ryuわーい(嬉しい顔)

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2009年03月12日

周辺

 日曜日長居公園に行くと、一足早い桜が咲いていました。・・・カワズザクラという名。

調べてみますと、伊豆半島の河津町で発見された早咲き桜だそうです。

 

P1030229.jpg

全体は一般の桜より濃いピンク色をしています。



 この季節は、卒業や入学、就職、あるいは人事移動など、「移り変わり」の時期でもあります。

「新しい気分で!」と張り切る気持ちとは裏腹に、新聞やニュースでは暗い話が多いようです。

 

 社会に悲観的ムードが蔓延しますと、うまくいく物もいかない・・・という結果にもなりかねません。

 
 その原因のひとつに、報道番組の伝え方にも問題があるのでは・・・と、前々から思っていました。

 

 
 どの局も「ニュース○○」とかいうのをやっていますが、見るたびにうんざりする時があります。


 理由はどれもコメントがネガティブだからです。


 経済学者や評論家は「これから景気は良くなるでしょう」とは絶対に言いません。

 

 悪くなると言っておいて、良くなっても誰も文句は言いませんが、良くなると明言しておいて悪くなったら専門家としての死活問題にかかわってきますからね。

 

「その問題をどう解決していくか・・・そこがポイントだと思います」


・・・なんて、わけの分かんないコメントを平気でする学者や評論家もいます。

具体的にどうすればいいのかを視聴者は聞きたいのに・・・


 不景気が起こってから、この不景気が起こった原因は○○にあります・・・なんて経済学者からコメントされても説得力はありませんよね。

 
 未来予測という誰もが知りたい本質を避けて、周辺の分析だけに終わっているパターンでしょうか。



 本質に迫るコメントを避けて、その周辺をいかに脚色するか・・・これ日本人好きみたいです。

 

 名論文は、結論を書かない、という鉄則があるくらいです。・

 

 そう考えていけば、ニュース番組で、政治や社会に対しても批評がやたら多く、正当な評価が少ないのは、日本人のサガかもしれません。

 

 経済を良くして、日本が元気になるためには、批評(周辺)よりも、お互いの励まし。

「それなりにちゃんと頑張ってますね」という、良いところを見つけ出すポジティブ思考ではないでしょうか。

By Ryuわーい(嬉しい顔)

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2009年02月08日

年齢詐称

 毎朝、洗面所で鏡を見る。

膨れ上がった顔に爆発した髪。ボーっとして、我ながら情けない顔を確認しながら歯を磨く。

 

 普段、快活な時は年齢など忘れて、「エネルギー120%」。「最近の若い奴はパワーがない」

などと愚痴を言うものの、駅のホームの階段で歴然と思い知らされる。

 

 人生も折り返し地点を過ぎると、何かの時にどっかりと両肩に年齢という名の「漬物石」が重くのしかかります。

 

自分の満足のいく仕事もしないで死にたくない。

もっともっと人生はバラ色だ。

自分にはもっと可能性があるのだ・・・

永遠の30歳・・・


 と図々しく思っているワタシに

 

「もう50を過ぎたんだから若い人みたいに無理は禁物」

とか

「この年齢に達したら食事と運動、お酒は控えて・・・それとこんな病気に気をつけて・・・」

と何でも年齢を基準に「あーしろ、こーしろ」とメディアが騒ぐたびに


「余計な御世話や」

と反論したくなります


 と同時に、今まであまり気にしてなかった年齢というものを余計に意識してしまうのです。

「年齢」が事あるごとにブレーキをかけていることって良くあります。

 

 いっそ、

 

 年齢という概念を世の中からなくしてしまったらどうなるんだろう・・・


 年齢がわからない社会システムにするのです

あるのは、誰と誰が兄弟で親族か・・・という関係のみ。

 

想像してみる価値はありそうですよ。

 

年齢が消えると

先輩後輩関係なし・・・、結婚の年齢制限なし・・・、

経験主義という概念が消えるので能力あれば誰でも総理大臣のチャンスはある・・・、

若輩者、という言葉も消えます。

年齢による差別もなくなります。

 

ただ、逆に

「まあ若いから許してやれ」

みたいな、年齢による逃げ道がなくなります。


 また年齢がありませんから、その人を特定するのに、「パーソナリティー1本主義」

になってしまいます。


 そうなると、今まで底辺で流れていた道徳律も
180度転換してしまうでしょう。

個性がなければ他人に認めてもらえない、意外と厳しい社会が出現するかもしれません

 それに病気の予防ができません。

 

そう考えると、メリットよりデメリットのほうがたくさん出そうです。


みなさんはどのように思われますか?

 


   ただ・・・、そうそう・・・、思い出しました

 

少なくとも、各界の年齢詐称問題はいっきに解決するに違いないでしょうが・・・

By Ryuわーい(嬉しい顔)

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2008年08月31日

それぞれの8月

 夏休みも今日で終わり。モバQ


 ワタシが小学生の時は、明日から学校・・・と考えるととても憂鬱でした。
しかも夏休みに散々遊んだ「つけ」が最後の
3日くらいに集中して、必死で思い出しながら絵日記を描いたり、漢字の書き取り、算数ドリルをやっていました。がく〜(落胆した顔)


 7
月中に宿題を全部片付ける「おりこうさん」もクラスにはいましたが、うらやましい反面、子供心にちょっと嫌いでした。

 でも夏の自由研究や工作なんかは結構楽しんで、自分なりに図書館行って調べたりしていました。

  

 我が家は5人家族ですが、この夏休み家族全員がそろって食事をする・・・という機会はお盆以外ほとんどありませんでした。
 ちなみにワタシのところは、地下が仕事場で上が自宅です。


 大学生の長女は活動エリアが地元から大阪、神戸に広がってアルバイトや旅行に精を出してました。(
9月半ばまで夏休みとか・・・)


 中
3の次女は日曜日も関係なく、塾から家に通ってるの?・・・と勘違いするほど毎日自習室に行って勉強。帰ってくるのは夜の11時。
 (姉貴より、絶対いい学校行くねん!・・・と、闘争心グツグツ)


 一番下は・・・、おばあちゃん家に泊まりに行ったり、結構ノホホンとして夏の工作も今日やっと完成。ワタシも手伝わされましたが・・・。

 

 相方は、自分が担当する工事現場がいくつかある上に、日曜日も講師の仕事が朝から夜までびっしり詰まっていて、この夏は休みなしの働き通しでした。

 

 そんなんで、みんなバラバラですから、私が事務所と家の留守番をしているような有様で、昼食と夕食のしたくはワタシの日課になってしまいました。でも夕方誰もいない家で、ビール片手に音楽聴きながらの料理仕度は結構楽しめました。

 
 それと、全然関係ないのですが、なぜかしら「仏教」に興味を持って、今勉強しています。

「南無阿弥陀仏」の意味が知りたいと思ったのがきっかけ。
サンスクリット語の音写なんですね。知りませんでした。


 余談ですが

 ワタシが小学校のころは、夏休みの工作とか関係なく、一年中、どうしたらこの飛行機がもっと飛ぶようになるんやろ・・・翼の角度かなぁ〜?とか、材料は?仕上げの色をきれいにするには・・・などと宿題そっちのけで必死で調べたり、考えたもので・・・めちゃくちゃ楽しかったですね。
 
 ワタシはたまたま手作り模型に熱中してましたが、友達の中にはラジオを作ったり、もっとすごいのは自分でレコード(蓄音機)を作ったやつもいました。(そいつはいま某国立大学で工科系の教授やってます)


 今の子供はパソコンやゲームを覚えるのは早いです。
 でも「
1から作る」という環境に慣れていません。

与えられたものを器用にこなすのは上手いのですが、それだけでは奥行きや広がりが形成されません。

 そもそも、今は、夏の自由研究を学校に持っていっても先生は評価しないんです。間違った平等主義のようにも思えてなりません。
 学校がそういう環境ですから、いざ何かを作る・・・となっても「何をどうしたらいいのか判らない」といった人間ばっかり増えていきます。


 みんながみんな「与えられるのを待つ人」になったらどうなるんでしょうか。

  


 明日から
9月です。

進行中の仕事もそうですが、止まっていた高層ビルのコンバージョンの仕事も再開したので、気分を一新して頑張りたいと思っています。


 それとこのブログとは別に新しく「住まいブログ」も
9月中に立ち上げます。皆さんに役立つブログにしたいと思っています。


 その時はまた、よろしくお願いします。

By Ryuわーい(嬉しい顔)

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2008年08月08日

この時期に想う

 毎年8月になると、広島と長崎に続き終戦記念日がニュースや新聞で取り上げられます。

 
 ワタシは戦争を知っている世代ではありませんから、こういったブログに自分の思いを公表するのはおこがましいのですが、それでもこの時期になると何かその当時(実際には経験していませんから、想像の範囲で)を考えてしまいます。

 

 アインシュタインが導き出した相対性理論はそれまで続いていた科学の分野を塗り替えてしまうほど新しい概念でした。


 高校の物理で習った有名な公式 
E(エネルギー)=mc
2(二乗)・・・mは質量、cは光速

 
 エネルギーと質量の等価性・・・と言うらしいのですが・・・むつかしいです。

単純なこの公式は、さまざまな意味を含んでいて、今日の科学技術を支えている基本でもあります。


 車や携帯で使われているGPSなどは光の性質(光の速さはどんなときも一定である)を利用したものです。

 
 でもこれを悪い方向に利用したのが原子爆弾で、広島と長崎に黒い雨を降らせた張本人でもあります。


 科学の進歩は、社会が豊かになると同時に、どこかでマイナス面を作り出しています。

 
 難しいことはわかりませんが、核分裂を起こすときにとてつもないエネルギーが出るらしいのです。
実際広島に投下された原爆ではわずか1kgのウランの核分裂だったらしいのです。

 

何かで読んだことがあるのですが、広島上空600mで炸裂した原子爆弾の爆風(衝撃波)は音速を超えていたといいます。台風の瞬間風速どころではありません。一瞬で街を吹き飛ばす破壊力です。

 こんな恐ろしいもの誰が考えたんだろうと思います。

 

 広島と長崎に原爆を落としたのは、本土決戦になったときのことを考え、これ以上日本の犠牲者を出さないため・・・というのがアメリカ側の理由で、今でもこれを正当化し続けていますが、真意はわかりません。

 その時期、日本を二つに分けてソ連とアメリカで占有する・・・という話もありましたので、ソ連に対する牽制として、原爆を落としたという説もあります。

 

日本は様々な物資(鉄や石油)は外国からの輸入に頼っていましたから、諸外国からの輸出を制限され、兵器を製造するにもままならない状況下に追い込まれていました。


 資源が乏しく、連合軍とは国力に差がありすぎていることは歴然としていながら、

「日本は神の国、絶対に負けない」という強硬路線を突っ走りました。上層部では一億玉砕を唱えたました。国家国民の私物化以外何者でもありません。
 もっと早い段階で、的確な判断が出来ていれば、原爆という最悪のシナリオは回避できたかもしれません。
 でも人間は極限状態になると正常な判断が出来ません。負けを認めたくないから、常軌を逸した強硬路線に出てしまうのもまた事実なのです。

 

 ワタシの父親(当時17歳)は特攻隊(敵陣に体当たり攻撃する部隊)の予備軍でした。

本土決戦に備え、軍は特攻部隊の数を増やしたのです。
戦争終結があと一週間遅ければ命はありませんでした。


 小学校のとき母親からこの話を聞かされました。

その時は、ただただ怖くて、ずっとこころにずっしりと重くのしかかっていたのを記憶しています。

特攻隊として出陣していれば、自分も生まれてこなかった・・・

 

 時々人は「お国のために散って行った」といいます。

でもこれは人の命の尊さ無視した軽い発言で、自戒しなければならない言葉と思っています。

 少なくとも「肉親の死」という悲しみを乗り越えるために敢えて親族が「散る」という言葉を使うのは許されても、全くの他人が死んでいった人を指して「散る」は非礼すぎるように思えてならないのです。

 

 ワタシは戦争は知りません。

しかし、多くの犠牲者によって今日の繁栄があることは間違いありません。

幸せとはなにか・・・もう一度この夏の時期に考えてみるのも、夏休みの別の宿題のような気がしました。

 

今、学校で習う歴史は昭和時代の手前で終わるのがほとんどなんですよね。

歴史的事実をしっかり認識する環境を整えていくことも今後の教育の課題ではないでしょうか。

 

By Ryuわーい(嬉しい顔)

ラベル:終戦 原爆 幸福
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2008年02月19日

時代はBD?

 東芝がHD−DVD事業から撤退を表明しました。

これは様々な業界に波紋を呼ぶこと間違いでしょう。時代の流れはBD(ブルーレイディスク)なのでしょうか。


 かつて家庭用ビデオが普及し始めた頃、VHSかベータか?で随分悩んだ記憶があります。もともと機械に弱いワタシでしたので、家電店に行って、店員さんに勧められるまま結局VHSを選んだのですが、一種の賭けでした。

ですが今は、「記憶容量に優れているものがいい」・・というのは、家電やパソコンの進歩で学んだ教訓のようなものなので、迷わずBDに流れていくのは避けられないのかもしれません。

 

BDは1枚で50GB(DVDの約10枚分)の優れもの。2時間のデジタルハイビジョン放送やパソコンデータをそのまま1枚に記憶してしまうからすごい容量です。
 
 20年前ワタシが仕事でパソコンを使い始めた頃はドクター中松氏が発明した
5インチのフロッピーディスクが主流でしたから「ギガ」なんていう単位は知りませんでした。100MB(0.1GB)の記憶容量を搭載したパソコンなんて、カタログに書いてあると「すごい!」と思っていた時代です。
OSもMS−DOSでした。(ちなみに 1GB=1000MBです。)
 しかもパソコン価格は今の20倍くらいしていました。
 そう考えたら、めまぐるしいスピードです。

 記憶容量が大きくなればその周辺も変わります。家庭用ゲームソフトはもっと進化しインタラクティブな楽しみ方が増えるでしょう。
 パソコン環境も変わりますからビジネスのペーパレス化は益々進むでしょう。

通信も文字情報より、映像や画像情報が多くなります。どんどんビジネスのスピードは上がっていきます。

 ビジネスのスピードが上がることは、そのむかし数学で習った放物線上にある接線の傾きが急になっていくことに似ているようにも思えますから、どんどん加速度的になってこの先どうなっていくのだろうかと不安になったりもします。


 文字・・とりわけ「書物」を読む人、読まない人、極端に分かれて、平均的国語力は低下していくかもしれません。

 国語力の低下は基礎学力の低下ですから、色んなところに影響が出てきそうです。
 
益々二極化が進むかもしれません。

 

 ブルーレイひとつで、そこまで杞憂になりすぎてもいけないのですが、ビジネス上の書類や取引、あるいはプレゼンテーションも電子化されて、相手と会わずしてビジネスが成り立つ(現にそうなっている)ケースが多くなり、教育も映像中心になったりして、そのため「会話」も少なくなり、無味乾燥的といいますか、何か違う方向に行きそうな気配がするのです。
 技術の進歩によって、社会は豊かになっていくのはいいことなのですが、逆に、「ゆっくり」とか「まったり」とか、人と人との情緒的な部分がなくなっていくような気がしないでもありません。


 ただポジティヴな見方をすれば、そういう時代だからこそ、より手作り的、職人的なものが希少価値を帯びてくる時代が到来するのかもしれません。 

 何事も適度が一番と、進歩の速さを否定しながらも、
10年後にはそれらが当たり前の時代が来てそれを受け入れている自分がまたそこに居ることも避けられないのですが・・・

By Ryuわーい(嬉しい顔)

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2008年02月01日

プレゼンテーション

 自分について話す・・・最近、とても大事なことのように思うことがらの一つでもあります。

 

 「1分くらいで自己紹介をお願いします」と言われると、たいていの人は自分の名前、住んでいるところ、家族構成、趣味、最後に「よろしくお願いします」くらいでしょうか。

 
 ところが、
これを「10分以上自分について話してください」と言われるとそう簡単にはいきません。

原稿なしではしゃべれない人も出てきますし、10分もとても無理、という方もおられると思います。


 自分について
10分もしゃべる機会など、一生に1回あるかないかですから、それが何か?と反論を買うかも知れませんが、仕事でもプライベートでも様々なところで、役立つと思うからなのです。

 

自分を語るには、まず自分を正直に分析することからはじめなければなりません。

そしてそのバラバラになったパーツを組み立てていくわけですが、ただ延々と生い立ちや趣味、嗜好をしゃべるだけでは聞いてる方も、結局何がいいたいの?で終わってしまって、心に残りません。

かといって奇をてらった事を無理にしゃべろうとすると、返って聞き手には「ノイズ」になってしまいます。

 

ではどんなことをしゃべれば・・・ということになるのですが、ワタシはそういった「どんなこと」というような内容よりも話そうとする気持ちの方が大事なように思うのです。

起承転結という方法論も重要ですが、それよりも当たり前のことでも、自分が心底そう思ったことや感動したことなど、「心の言葉」として話せば、必ず相手は好印象を持ってくれると思っています。

 

 設計コンペというのがあります。自分の考えた設計を図面化して、そこに文章や写真などを加え、プレゼンテーションしたものを競い合う競技のことですが、これなどは「この設計の意味は何か」が見えてこなければ絶対に勝てません。

学生にもその設計コンペを指導する機会があったりするのですが、ワタシは常々「頭で考えないで、心で考えなさい」と言っています。
 でも若いせいもあって「シャープにかっこよく」とか「シンプルに」とか、どうも自己満足的言葉が学生からなかなか消えません。

 
 「心の目」で見たときは不思議と「神宿る感覚」になります。「これしかない」という境地に達します。

    


 設計コンペに限らず、他の職業においても同じようなことが言えるのではないでしょうか。

頭で何かをやろうとしたり解決しようとすると失敗しますが、「ダメモト、誠心誠意当たって砕けろ」とやったほうが意外とスムーズに行ったりします。

 

 自分について語ることは、そこには「うそ偽り」がないわけですから、日ごろ自分が思ってることや考えていることをまとめてみて、文章化しておくのも一つの方法かもしれません。


 何よりも、頭で考えるより、心で考える訓練になるように思うのです。

By Ryuわーい(嬉しい顔)

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2008年01月04日

1年の計は・・・

 明けましておめでとうございます。


 本日よりブログ&仕事を開始しました。


 1
 年の計は元旦にあり・・・と昔から言います。

今年はこんな年にしよう、といろいろな思いや希望が浮かんでくることと思います。


 でも、ここで考えてみましょう・・・ということで新年早々ですが

 目的なのか手段なのか、について少しお話しを・・・。
 生意気言ってすみません。


 「今年は読書をいっぱいやろう」とか

 またある人は

 「今年は少しでも給料が上がるようがんばろう」

 と思っている人もいらっしゃるかと思います。


 ワタシもかつていろいろな思いを正月に立てた記憶はあります。

毎朝ジョギングをやろう、日記をつけよう、大きな仕事もやりたい・・・etc

数え上げればキリがありません。


 でも実行されたためしはほとんどありません。意志が弱いと言ってしまえばそれまでですが、多くの方がワタシと似たような経験は持っておられると思います。

 
 ではその最後まで続かない原因はどこにあるのでしょうか。それについて真剣に考えたことがあるのです。

ここからは、ワタシ流の考え方なので聞き流していただきたいのですが、


 思うに

 何かをやろうとした時に、それを実行したあとに来る自分の姿といいますか、「どんなイメージを持ってそこに自分を存在させているか」ということがとても大事だ、ということなのです。


 日記を続けたい・・・とてもいいことなのですが、それを1年遂行した時に訪れる自分は何か・・・というところまで考えたかどうか、なのです。

 誰のための日記なのか、自分のためなのか、それとも他人に「1年日記続けました」と自慢するためなのか・・・

 
 ここに学生がいます。成績が良くなるように頑張ろう・・・と決意している人がいたとしても、ほとんどの人は長続きしないでしょう。

 それは、勉強をした後にくる「こうあるべき自分」という目的が定まってないのが最大の理由です。勉強して成績を上げることはいいことですが、成績を上げてどうするのだ・・・というところまで

考えが行っていません。
 勉強しよう・・という手段が目的になってしまっているのです。


 結婚したい・・・いい会社に就職したい・・・
それらも同じことが言えます。
 結婚しました・・・いい会社に就職しました・・・そのあとの自分のイメージがなければ続きません。これも手段が目的になってしまっています。 

 ボクは医者になりたい、ワタシは看護士になりたい、・・・と考えた瞬間白衣を着ていて、患者に対応している自分の姿を思い浮かべるに違いありません。そうなれば、この先どのような学校にいかなければならないかが分ってきますし、その学校に行くためにはどんな教科を重点的にやらなければならないかが分ってきます。


 「痩せたい!」と思う人はたくさんいます。
 でもここで、憧れてる人から
 「もし君があと5kg痩せられたら、ボクと付き合ってもいいよ」
なんて男性から言われたとしたら、きっとその女性は真剣に頑張るに違いありません。

(そんなことで私を評価する男性は嫌いです・・・という人は除いて)
それでいいのではないでしょうか。
 「痩せたい」だけではなかなか痩せられませんね。

 
 こういう目的がはっきりしている場合は、スピードの差は人によって出てきますが、目的と手段がはっきりしていますので、意外と続けて地道にやっていけるのです。

 でも全くイメージが湧かず、ただ漠然と「やろう!」だけで「継続させること」はできそうで出来ないのです。


 何かをやろう!と決意した時には、それが完工され出来上がった時の自分を想像して、それに対して「幸福感」を味わえるかどうか、そしてその幸福感のために今何をしなければならないか・・・目的と手段がはっきりと明確になってるかどうか・・・ですね。


 自分の言い訳ではないのですが、人間はそんなに意志の強い人はいないように思うのです。
99.99%の人が凡人と思っています。ですから目的がなければ続かないのです。


 
 

 人のことばかり言っていては叱られますので、自分のこともしゃべっておきますが、ワタシは建築の仕事に就きたい思っていたのは中学生の時からです。父親が公務員で営繕関係の仕事をしていましたから、英国製のコンパスや烏口をはじめ、様々な製図道具が身近にありました。小学校の時から図面や製図道具を見ていて「かっこいいなあ」と常々思っていたので、颯爽と図面をひいている自分を想像していました。勉強はきらいでしたが、「かっこよさ」にあこがれたのです。調理師や画家にも憧れましたが、結局建築でしたね。

 今は多くの人に「豊かな生活をしてもらいたい」と願って仕事をしています。
  

 すべてはどうイメージするかですね。

 

 ワタシは今年こそ「本」を出版したいと思っています。それが目標です。2年前から言っています。すみません。

でも少しずつですが、ネタは集まっています。

 

みなさんはどのような1年を計画されていらっしゃるでしょうか。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

By Ryuわーい(嬉しい顔)

posted by ばばちゃん at 23:18| Comment(1) | TrackBack(0) | 言いたい放題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月11日

想像力は大事です

 姉歯事件以来、社会は偽装ブームといっていいくらいに連日新聞やニュースを賑わしています。

構造計算偽装、食肉偽装、偽装請負、賞味期限偽装・・・まだまだ出てきそうです。


 偽装とはつまるところ消費者またはエンドユーザーに「嘘」をついて自社の利益を優先させることです。

資本主義社会の中で利潤を追求していく前提となるのは他社に「勝つ」ことにあります。勝たなければ食べていけません。勝つためには何でもやる!と豪語した亀田父に象徴されるように、社会全体が間違った価値観を持ちつつあるような気がしてなりません。


 と同時により世の中が複雑化し、他人に無関心な人が多くなると「誰も見てない。これくらいは大丈夫だろう・・」という旅の恥はかき捨てではないけれど、軽い気持ちから甘えの構造が根を張り「モラルの低下」が日常化してしまいます。


 こういった背景には、自分が育ってきた環境というものが大きく影響しているように思います。

ワタシは来年の1月で50歳になりますが、昔と比べますとすべてに「余裕」がなくなってきていているように思えてなりません。考える余裕です。教育も今の先生と昔の先生はぜんぜん違います。昔は先生というと「師範学校卒」で親よりいい学歴を持っていてまたそれが教育に対する責任感という形に出ていました。悪いことをしたら殴られました。でも殴られたからといって親に言ったら「お前が悪い!」と余計に怒られました。でも今は違います。親の方がいい学歴を持っています。それがすべてではありませんが、まして実社会経験のない先生ですから、何を拠り所に生徒に教えていいのか分からない先生も多いのです。
 だから何が正しいのかという根本的なことをつい置き去りにして「殴ることは良くない」と形式論議から入ってしまいます。形式論では物事は前に進みませんし発展はしません。


 実社会に出てからもそういう教育を受けてきた人々を教育し一人前の企業人に育てていくには相手先に対する対応方法や仕事の進め方など「マニュアル化」するのが最も手っ取り早いのです。
しかしマニュアルで育った人間は想像力が欠落します。問題が起きても正面からしか見られません。


 偽装をすることは社会の信用を失墜させる。一度落ちた信用は取り戻せない・・・この基本的な倫理すら分からなかったのでしょうか。想像はしていたが「これくらい・・」という相手(社会)をなめてかかったのでしょうか。

相手をなめることは、相手が読めていない事の裏返しで、先を見通したり読む力がない、つまり想像力がないことを露呈しています。読めない人々(社会)を相手に商売をしていた、ということになります。偽装の問題と同時に商売人としての資質が問われそうです。


 姉歯の事件を受けて、国交省は今年
6月に建築基準法を改正しました。これには賛否両論ですが、実質は、建築業界は大混乱をしています。新築住宅個数も昨年に比べ-40%以上半減しています。検査機関の確認申請業務量が増え、申請に膨大な時間がかかるようになりました。そのおかげで予定していた工事着工が狂います。資材や設備機械など扱う業者は資金繰りが出来ず倒産に追い込まれる・・・。


 建設は就業者人口の約
1割です。何らかの形で建設に関連しています。建設資材の鉄が動くか動かないかで景気は左右されます。住宅産業の新築個数が減れば家電業界も打撃です。(新築と同時に家電を買い換える人が多い)


 いっきに強行施行した国交省は、確認申請業務が停滞すれば社会が混乱すること予想できなかったのでしょうか。なぜもっと段階的にやらなかったのかと思います。

そして今になって基準法運用を緩和する方向に動いています。

なぜか場当たり的な感じは否めません。

 

これからの社会はどんな方向に進んで行くのでしょうね。

こういう先行き不安な社会だからこそ、想像力は混乱を防ぎ社会を安定させる必要不可欠な能力であるとワタシは思います。

By Ryuわーい(嬉しい顔)

ラベル:偽装問題 想像力
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2007年09月19日

たまには月見うどんを・・・

 男の色気談義で、前々回僕の書いたブログより、前回相方(たかこ姫)の書いたブログのほうがアクセス数が多かったので、「こりゃいかん!」となって少し補足。・・・
 相方のブログ読んで、「話を聞かない男、地図が読めない女」という本を思い出した。
「そういえば、そうだった」

 女性はフニャフニャ理屈を言わず「スパッ!」と核心に迫ります。パンチ

 ところで、「ぶれない」とはもっと分かりやすく言えば「ピントがあってる」こと。

 たとえば、昼メシ食べるのに、近くのうどん屋でも、社員食堂でもどこでもいいんだけど、何のためらいもなく毎日「日替わり定食」を食べる男性・・・これって、よーく考えれば、ピント合ってないんです。どこか他人任せで、何も考えてない感じがする。
10回に1回でいいから、
「きざみうどんに玉子入れて!」
と、店のオヤジにかっこよくきめてほしい!。(それって月見うどんやがな)
 本人にしてみれば「日替わりは便利・・・それのどこがあかんの?余計なお世話や!」ってな感じで叱られそうだけど。
 それとか自分は他の仕事したかったのに、一流企業だから今の会社に入った・・・とか。etc・・・とか。

 ぶれないピントが合う自分がある・・・が即「男の色気」につながるとは思いませんよ。なぜなら色気が出るには「いい素材」が時間をかけて、発酵し熟成していく時間もまた必要だから。
ただ素材が悪ければ、発酵でなくて単に腐ってしまうだけになる。そうならないためのいい素材=「ぶれない自分」なのだ。・・・

さて、へ理屈はこれくらいにしておいて
今日の晩ご飯はうどんできまりやねグッド(上向き矢印)
By Ryuわーい(嬉しい顔)
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2007年09月17日

男の色気って何?ってそんな・・・

 前回の記事に少しだけ意見しておきます。

 『男の色気って』とかそういう形のないもの、全体像のつかめないものに対してはあーだこーだと言い切るのは苦手かな。
総じて「男子」はそんな議論が好きで「女子」ははっきりしないものについての議論は好きではないのではないかなあ。
というか、議論そのものがすきではないかも。

 男の色気などというものは、その場のシチュエーションによってかもし出されたりそうでなかったりするのではないでしょうか。
パイレーツオブカリビアンジャックスパローはとっても色気があると思うのですがジャックじゃない時のジョニーディップはそんなでもないし。

 『ぶれないこと』ってわかりにくい。
『感受性が豊か』『いさぎよい』男子は確かに魅力的だけれど、
それが色気であるかというとそうでない場合のほうが多いと思うのです。
お友達的高感度UPの要因のひとつであることは間違いないけれど・・・

 「女子」「男子」に対して色気を感じるときは、
何がってわからないけれど何か色気ある!って感じじゃないかな。
ある種、魔法揺れるハートのような。

 とにかく「女子」はこれはこうだと言い切るのがすきではないのです。
だから、『男の色気とはこれ』とか言い切ってる時点で「女子」の感覚とはズレが生じているのではバッド(下向き矢印)

byたかこ目
ラベル:女子 男子 議論
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2007年09月14日

男の色気って何?

 酒の肴にぴったりの話題なので、独断と偏見を交えてあえて書いてみた。多分、パートナーから反論あると思うけど・・・。

 10年くらい前に見た「ヒート」という映画の中で、悪役のロバート・デ・ニーロと刑事役のアル・パチーノが市街地で銃撃戦をやるシーンがある。その銃を構える姿が二人ともすごくかっこいい。照準を合わせたようにピタッ!と「絵」になっていて「色気あるな〜あんな風になりたい」って思ったことがある。・・・なんと単純なワ・タ・シ
 映画だから、現実とはかけ離れた架空の世界だけど、見ている人を釘づけにするくらい「絵」になり得た秘訣は、演技の上手さ以上に、人を魅了する=潜在的な何か=をこの二人の役者は持っていたからなのだと思う。

alpacino.bmp

 ところで潜在的な何か・・・って、なんだろう?

これは僕の定義だからいろいろ反論はあるし、女性が見るのとまた違うから断定は出来ないけど、一つは「ぶれないこと」=「自分があること」ではないかと思ってる。様々な局面に対して、何が大切であるか、その本質を見抜く力。この能力がなければ、こころの余裕も出きず、優しさも出ない。「自分」がないと人の言動に振り回される。
 よく男の色気を勘違いして、スキンケアに一生懸命になる男性もいる。・・・マナーとして大事なことには違いないから否定はしないけど、本質ではない。
 一時「チョイ悪オヤジ」が流行った。これも外見だけ「不良っぽく」似せて、中身が伴ってなければ所詮はメッキ。普通にしてる方がどれだけすばらしいか。普通っぽい人が、仕事でも何でも他人に真似が出来ない「すごいこと」をする、そのギャップの方が、はるかに魅力的である。
 学生時代、「不良」が女子学生にかっこよく映るのは、自分たちが経験したことがないような、知らない世界を知ってるような、そんな奥の深さを感じてしまうからなのだろう。(多くは外見で騙されてるのだが・・・骨のある不良はそんなざらにはいない。)


いつの時代も、女性は奥の深い男性がすきみたいですね。

それはさておき・・・続きを読む
ラベル:ヒート 男の色気
posted by ばばちゃん at 22:04| Comment(1) | TrackBack(0) | 言いたい放題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月23日

改正建築基準法は抗がん剤?

 先日、民間検査機関で確認新申請と計画変更申請を提出しやっとのことで済証をもらった。2物件とも木造の住宅であったが、はっきりいって「なんだぁこれは?」。姉歯の偽装を受けての基準法改正であるらしいが、なぜか生理的になじまない。とくに改正以後は書類の誤字脱字と図面の整合性にきびしい。訂正印は一切ダメ。すべて差し替え。図面に市町村の経由印が押してあっても、差し替えることで再度経由印をもらわなくてはならない。
 そこで一例をあげれば、弊社が出した確認申請書のなかで、洗面室の洗面器の形が平面図(1/00)と設備図(1/100)とで食い違っていた。担当者からは「図面に相違があるので差し替えて欲しい」と言われた。「これが基準法と何の関係が・・!」と、のどまで出かかっていた文句を飲み込みながら、やむなく差し替えた。文句を言ったところではじまらない。改正以前ならこんな(つまらない?)ことは指摘されなかった。担当者本人も「何でこんなこと指摘しなくちゃいけないのか」と多分思っているだろう。いじめてやろうというサディストでないかぎり。
 設計図面を描くというのは、何千何万という情報を図面化しなければならない、素人から見れば気の遠くなる作業。そこにクライアントの要望やコストが絡んでくれば設計変更はついて回るし、その変更を繰り返しながら成果をあげていく作業でもある。いわば、「スパイラル」を描きながら少しずつ精度をあげていくのが特性である。図面に食違いはあってはならないが、スパイラル作業過程の中で過去と未来の情報すべてに整合性を満たすことは不可能に近いし、合致させても意味がない。(自己弁護ではなく事実を言ってます)
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